国連科学委員会(UNSCEAR)が2013年10月25日に発表する予定だった報告書を2014年4月2日になって発表しました。東京第一原発から20km圏内で初めて田村市都路地区が2014年4月1日、避難指示解除になりました。あえてその避難指示解除日2014年4月1日の後に公表した疑いがあります。
日本政府の「内閣府原子力被災者生活支援チーム」は2013年7月に「帰還対象の住民の不安払拭に向けて」、農業や林業、事務職員、高齢者など職業や生活パターンごとの個人線量を推計して示すために、田村市、川内村、飯舘村の43カ所で空間線量と個人線量を測定していました。その中間報告書は2013年10月にすでにまとまっていたにもかかわらず、公表されたのは、やはり、田村市都路地区の避難指示解除後の2014年4月18日でした。
国連科学委員会は、結論として「日本国内に暮らす大多数にとって、福島第一原発の事故に伴う放射線核種による1年目の追加被ばく量は、自然放射線によるバックグラウンドから受ける年間被ばく量、約2.1ミリシーベルトよりも少ない。」「とりわけ福島県から離れた県に暮らす人の場合、(事故から受ける)線量は0.2ミリシーベルトかそれよりも更に低いと見積もられる。」と評価しています。
国連科学委員会 東京電力福島第一原発事故の健康への影響に関する最終報告書 APPENDIX 英文C「公衆被ばくの線量評価」結論 p.207 C146
国連科学委員会は「原発事故の放射線の影響によるがん発症率への影響は小さく、福島県での明確ながんの増加は予想していない」と結論づけています。(東京新聞 2014年4月3日)
しかし、自然放射線年2.1ミリシーベルトであり(福島県以外)、広島、長崎でがん発症率が0.5%増えたとされる年100ミリシーベルト以下であるから(福島県)、被ばくによる明確ながんの増加は予想できない、と国連科学委員会は評価しています。しかし、この国連科学委員会は原発労働者やチェルノブイリ原発事故のリクビダートル(除染作業員)のその後の健康被害を無視する暴論です。
37年間にわたり、原発労働者の写真を撮り続けてきた、樋口健二氏の写真集『原発崩壊』(合同出版、2011年8月15日刊 2800円)に敦賀原発の定期点検の時に格納容器内に入って作業した原発労働者の話が掲載されています。彼は25日間しか、原発被ばく労働をしていませんが、歯がぼろぼろと抜け、働けないからだになりました。彼が働いた最後の日の午前中に浴びた被ばく線量はたった2ミリシーベルトです。この2ミリシーベルトの被ばくで彼は働けないからだになりました。
国連科学委員会や、国際放射線防護委員会(ICRP)、国際原子力機関(IAEA)、そして放射線医学総合研究所(千葉県千葉市)の放射線防護モデルは、この自然放射線との比較、広島、長崎の被爆者の発ガンリスクの、ミリシーベルトに基づいています。これは誤りです。2ミリシーベルトの被ばくを一度にすると、ぼろぼろのからだになる場合があります。これは原発労働者の健康被害が如実に示しています。
それは、自然放射線と原発被ばく労働による内部被ばく、外部被ばくに決定的な違いがあるからです。
原発被ばく労働は、100、200種類を超える様々な放射性物質(核種と言います)を吸ってしまいます。また、外部からガンマ線だけでなく、ベータ線を浴びます。原発内にある核種の多くが数分、数時間、数日で半減期を迎える短寿命核種です。あっと言う間に放射線を出して、安定な物質に変わっていきす。つまり、短期間にさまざまな臓器がさまざまな放射線(アルファ線、ベータ線、ガンマ線)を浴びるということです。
甲状腺も様々な放射性ヨウ素(ヨウ素133、ヨウ素135、ヨウ素131)などを取り込み、ホルモンや免疫機能がかく乱されてしまいます。
同じ2ミリシーベルトの被ばくでも、自然放射線と原発被ばく労働とはまったく違う健康影響になります。初期被ばくが健康影響に決定的なのです。それを単なる年間被ばく線量で評価することは、人間を生物としてではなく、金属でできた機械として考えるやりかたです。国連科学委員会はその初期被ばくの影響を無視しています。
福島の人びと、そして、東北・関東地方の人々は、この原発被ばく労働とまったく同じ、内部被ばく、外部被ばくをしたのであり、今後予想される健康被害を単なるミリシーベルトで推定することは非科学的です。
村居国雄さん(当時45歳、無職)の証言
樋口健二『原発崩壊』合同出版、2011年8月15日刊 2800円 pp.63 より
忘れもしない、あれは万博の年でした。夢の原子力だとか言って、昭和45年(1970年)3月、運転に入った敦賀原発の出入り業者が日当4000円になる仕事があるというんで行ったんです、当時の日当は2000円が相場ですから、わしらにとっては倍も稼げるということは大変ですから、わし一人ではなく、この辺では十人以上、いきよりましたよ。でも、みんなあの原子炉の二重扉(エアロック)に閉じ込められると恐ろしくなって、2,3日でやめてしまったがね。最後まで残ったのはわし一人だった。ビル代行という下請け会社に入ったのは、ちょうど第1回目の定期点検の時です。10月20日から11月13日までのわずかでしたが、放射能除染作業をやったんです。本雇いにしてもいいと通達を受けた矢先の11月13日、朝から同僚のY君と会社の指定に従って、床の水ふき作業をやったわけです。この時はポケット線量計だけを持ってフィルムバッチは詰所の上衣のポケットにしまったままでした。昼休みに外へ出て驚いた、被曝線量を示す、ポケット線量計が最高値の200ミリレム(2ミリシーベルト)を振り切っていたんです。大騒ぎになって、すぐ救急車で敦賀市内の病院に運ばれ、血液と尿検査を受けたが異常なしという。あたりまえですわね、すぐわかるほどでしたら死にますからね。当時、所長の高橋さんは人には言うなというんで、恐くなってやめてしまったんです。翌年、3月ごろから高熱とだるさは1ヶ月以上も続き、その上に歯がぼろぼろと10本も抜け、うしろの髪がごっそり抜け落ちたりして働けなくなった。
それからは医者通いでした。親から受け継いだわずかな田畑と家を売りつくしてしまったんです。今は女房の手内職でやっと喰わしてもらっているありさまです。大の男がブラブラしているのは苦痛ですが……。昭和49年(1974年)春、知り合いから被曝の恐ろしさを聞かされ、会社に相談して大阪大学病院で田代医師に診てもらいたいとたのんだところ、田代医師はだめだ、放射線科の重松医師なら指定医だからと言われ、しぶしぶ診てもらったら、「被曝なし」の診断でした。納得できないので後日、田代医師を訪ねました。先生は染色体の追跡調査もしなければいけないと言ってくれました。それは被曝後に生まれた子どもがいるもので遺伝のことも心配だったんです。(1989年1月、滋賀県木之本町)
<追記>2011年3月12日から屋外でマスクもつけず、双葉町の住民の避難誘導にあたっていた、井戸川克隆 元双葉町町長は、2011年3月、ある機関の測定では、実に4.6ミリシーベルトの内部被ばくをしていた、とのことです。
(注)国連科学委員会の正式名称は、原子放射線の影響に関する国連科学委員会 United Nations Scientific Committee on the Effects of Atomic Radiation)
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