なぜ、大阪湾に放射能汚染水を放流してはいけないのか

山崎 秀夫(元近畿大学教授) 

2019年9月20日

 この度、大阪市長から「福島第一原発の貯留タンクに保管されている放射能汚染水を科学的に可能なら大阪湾に放流しよう」という提案がなされました。全く非科学的な提言であり、その発言からは具体的な科学的根拠に基づく検討を行った痕跡は認められません。
下記に放射能汚染水の大阪湾への放流(海洋投棄)に対する問題点について列挙しました。

【大阪湾に放射能汚染水を投棄してはいけない理由】
 放射性物質に限らず、環境汚染物質管理の原則は拡散ではなく「集積」である。人為的に汚染水を環境中に拡散させることは、環境汚染防護の原則に反する。拡散によって希釈しても、食物連鎖による生態濃縮、環境変動による化学濃縮が起きる可能性が高い。トリチウム(T)は生体濃縮を受けるリスクは低いが、食物連鎖による生体間拡散は起きる。
 福島第一原発のタンクに貯留されているALPS 処理水にはトリチウム以外の様々な放射性核種が含有している。TEPCO がHP で公表している2018 年度ALPS 処理水データの中で、タンクに貯留している最も高濃度なものは、T(トリチウム): 1,621,000 Bq/L, 137Cs(セシウム137): 829 Bq/L,90Sr(ストロンチウム90, β 線放射核種): 433,100 Bq/L, 全β 線:954,300Bq/L である。全β 線と90Sr の差は90Sr 以外のβ 線放射核種がALPS 処理水に含まれることを意味する。
 ALPS 処理水を保管しているタンク貯留水中には半減期が極めて長い99Tc (テクネチウム99, 214,000 年)や129I (ヨウ素129, 1,600,000 年)も含まれている。保管処理水を海洋投棄することは、トリチウムと共にこれらの放射性核種も同時に海洋に放出することを意味する。これは環境生態系の放射能汚染の観点から極めて憂慮される。
 TEPCO(東京電力ホールディングス株式会社:編集者注) が公表しているデータによれば、貯留タンクに保管されているALPS 処理水の放射能濃度はタンクごとのばらつきが極めて大きく、ALPS が健全に稼働していないことを示唆している。TEPCO 自身もHP 上の資料において、ALPS 稼働の不確実性について記載している。この様な不完全な装置から排出された処理水は成分の種類、濃度の変動が大きく、完全に管理して海洋投棄することが難しい。ALPS 処理水は放射能汚染水であることを忘れてはならない。
 ALPS 処理水は原子炉冷却水として再使用されている(今でも、事故を起こした原子炉には冷却水が注入され続けている)。この様なリサイクル使用を繰り返せば、ALPS ではトリチウムは除去できないので、リサイクルのたびに処理水中のトリチウム濃度は上昇する。ALPS 処理水をタンクで永久保管する立場からは、処理水容積の増大を抑制できるのでこの方法は賢明である。
 しかし、原子炉に注入した冷却水(ALPS 処理水も含む)が完全に回収されてALPS で処理されているわけではなく、陸側から海側に流れている地下水と共に原子炉から漏洩し、福島第一原発沖の海底への湧出が続いている。福島第一原発の岸壁の遮水壁や周囲に造った凍土壁は漏洩地下水の遮水にはあまり効果が出ていないようである。即ち、現状では高濃度汚染水と地下水は混合して、福島第一原発沖の海底から海に漏洩している。その結果、福島沖では今でも高濃度に放射能汚染した魚介類が捕獲されている(事故初期に比べて汚染魚の存在割合は低くなっているが、消費者には汚染の有無を判断できない)。
 大阪湾は極めて閉鎖的な内湾であり、海水の滞留時間(海水が外洋へ流出するのにかかる時間)が長い。特に関空の二期工事が完成してから、大阪湾海水の滞留時間がより長くなったと言われている。関空から内側の大阪湾内湾には還流が発達しているので、大阪湾海水は湾奥部に滞留しながら外洋ではなく瀬戸内海に拡散していく可能性が高い。
 福島第一原発から大阪湾までのタンク貯留水(放射能汚染水)の輸送システムは検討しているのか。タンカーによる海上輸送?タンクローリーやコンテナによる陸送?事故時の対応体制はできているのか。様々な問題が山積している。
 大阪湾は赤穂のタイ、明石のタコ、泉南のアナゴやワタリガニ、その他、イカナゴ、イワシ、アジ、底魚のカレイやエビなど200 種以上の漁獲がある大漁場である。ここに放射能汚染水を投棄することは、この海域の漁業を壊滅させるのに等しい。
 トリチウムは半減期12.3 年であるので120 年(半減期の10 倍の時間)保管すれば現在の濃度は1/1000 に減衰する。汚染の管理ができない海洋投棄より福島第一原発構内で保管管理した方が賢明である。保管管理のコスト削減のための海洋投棄であるならば本末転倒である。保管管理することによって国際的なストレスも低減すると考える。
 現在の汚染地下水の海洋への流出を止めるためには福島第一原発全体を囲う棺桶型の遮水壁を造るしかないであろう。デブリは炉内から取り出さずに(取り出しても持っていく場所、保管する場所がない。政府は福島県と撤去期限を30 年と約束したらしいが、空約束になる可能性が高い)、棺桶の中で永久保管するしかないであろう。

追記
・トリチウム汚染水の海洋投棄を容認する事由として、トリチウムが放出するβ 線のエネルギーが極めて低い(0.019 keV)ので、トリチウムの健康影響に対するリスクも低いと考えられることが挙げられている。
 しかし、それは外部被曝の場合であり、トリチウム結合水分子HTO(普通の水はH2O)が生体内に入った場合には、トリチウムが生体分子と直接接触するので、水素結合の活性化によって生体分子やDNA が変性を起こすことを忘れてはならない。
・さらに、放射能汚染水を環境に放出する際に濃度限度(原子力規制委員会告示)以下に希釈すれば問題ない、ということも挙げられている。しかし、この濃度限度は外部被曝について決められたものであり、内部被曝は考慮されていない。低線量放射線被曝では内部被曝による健康影響の効果を評価すること重要である。
・人に対する低線量被曝の健康影響については、被曝の形態(1 mSv を1 年かけて被曝するのか、1 秒で被曝するのか)、線種(α 線かβ 線かγ 線かX 線か)、内部被曝か外部被曝か、全身被曝か特定部位への被曝か、核種によって決定器官(臓器によって放射線感受性や集積特性が異なる)が異なるなど、種々なパラメータが混在しており、それが複雑に絡み合って健康影響を起こしている(と考えられている)。大阪湾に放射能汚染水を放流した場合の周辺住民に対する低線量被曝がどのようなプロセスで起きる可能性があるのか。
 大阪市長の提言はこの問題をどこまで考慮しているのか疑問である。現状では健康影響に対する不確実性があまりにも大きい。
・ 放射線の生体影響は「確率的影響(どんな低線量被曝でも確実に影響を受ける。その影響が誰に発現するは運しだい、という理論)」であることを忘れてはならない。

放射線による低線量被曝の健康影響に関する重要な文献の例:
・Nationwide Increase in Complex Congenital Heart Diseases After the Fukushima Nuclear Accident. K. Murase et al.,
J. Ameri. Heart Assoc., Jan. 16, 2019.
DOI: 10.1161/JAHA.118.009486
(福島事故後、わが国では全国的に複雑な先天性心臓疾患が明確に増加している)
・Ionising Radiation and Risk of Death from Leukaemia and Lymphoma in Radiation Monitored Warkers (INWORKS): An Internation Cohort Study. L. Leuraud et al., Lanset,Jun. 22, 2015.
http://dx.doi,org/10.1016/s2352-3025 (15)00094-0
(被曝線量がモニターされている放射線労働者の発癌性に関するコホート調査の国際比較=わが国は参加していない=)
・Evidence for A Lack of DNA Double-Strand Break Repair in Human Cells Exposed to Very Low X-Ray Doses. K. Rothkamm and M. Lobrich, PNAS, Apr. 29, 2003, 100, No.9, 5057-5062
(1mSv 程度の非常に低い線量被曝でヒト細胞DNA の二重鎖切断が起こり、それが修復されないことを確認した)

以上