こちら特報部 背信の果て(下) 「甲状腺問題意識高く」 当時の関係者 広い範囲を心配 回答と食い違いか 2019年1月28日 東京新聞 朝刊25面

 震災直後、原発周辺はどのような状況だったのか。

 国は一一年三月十二日午前六時前、原発から十キロ圏に避難を指示した。国会事故調の報告書などによれば、車の大渋滞で普段は一時間の距離が六時間以上かかった例もあった。最初の爆発は同日午後三時三十六分。国が後日公表した試算では、汚染は主に西や北西に広がる見立てになっていた。

 双葉町の町長だった井戸川克隆氏は、原発の北西約四キロの町役場近くにいた。「付近に三百人ほど。上羽鳥(かみはとり)近くにも多くの人がいたと聞いた。子どもも妊婦もね」。同町上羽鳥は原発の北西六キロ弱。後の県の発表によれば、爆発直前の午後三時に毎時一五九〇マイクロシーベルトを記録。原発敷地外で最も高いとされた。

 井戸川氏は「ベントがあった直後だよ」と語る。ベントとは、原子炉格納容器が内圧で壊れるのを防ぐため外に排気する操作。放射性物質も一緒に漏れる。

 午後六時すぎ、避難指示は二十キロ圏に。情報開示文書によると、放医研は翌十三日朝、「ハイリスク群に双葉地区住民」と分類していた。逃げ遅れた人たちの被ばくを心配していたことがうかがわれる。

 一連の発言は、その八日後にあったことになる。「深刻」発言の経緯を相手側に聞いた。

 記録を書き残していた保田氏は昨年十一月、今の勤務先の広島大で取材に応じた。「山下先生がOFCにいたのは一時間ぐらい。私としては当時、子どもたちがどれだけ放射線を浴びたか分からなかった上、原子炉の状態がはっきりせず、今後どれだけ浴びるかも見通せなかった」

 事態を楽観できない中で「先生とは『チェルノブイリと同じようなことが起こりうる』と意見が一致した。被ばく線量の話は直接しなかったが、甲状腺被ばくで後に子どもの甲状腺がんが増えるかもしれないと」。そういう内容の話をしたという。

 保田氏はさらに説明する。「先生がOFCに来たのは、対策を考えてほしいという趣旨だった。県内全エリアという意味合いだったはず。チェルノブイリでも原発から離れたところで(汚染の程度が)高い場所があるから。食品制限を言っていたのと、県立医大にいる甲状腺の先生に協力してもらうのがいいと助言された。指示は具体的で、問題意識が高かった印象」

 昨年十二月、立崎氏も取材した。「山下先生が『場合によってさらなる避難を考えないといけない』と話したのを覚えている。私は原子炉が安定していると全然思っていなかった。いつ大量放出になるかと。OFCの総括班の人もおり、説得力がある先生に話してもらえて有意義だった」

 二人の話は、「保田氏が悪い状況を想定した」「私は状況把握に異を唱えなかっただけ」という山下氏の本紙への回答と二点で食い違う。一つは、深刻な被ばくが起きかねないと意識した地域。二人の話の通りなら、かなり広い地域を心配していたことになる。

 もう一つは山下氏の姿勢。回答からは、放医研の二人に対して相づちを打ったような印象。しかし、二人の話では、山下氏が強く対策を求めている。

 情報開示請求で県立医大の文書を手に入れた。「ニコニコ」発言の前日、一一年三月二十日にあった内部会合の議事概要だ。「県民への広報、情報発信について」で山下氏の名が挙がり、「心配ない旨話をしていただく」とあった。医大に頼まれて安心を強調したのか。山下氏は、取材では否定したが…。

 二十四日からは国による子どもの甲状腺被ばくの測定が始まった。山下氏と会った保田、立崎両氏も携わっている。二人は事態を楽観していなかったはずだ。しかし国は対象地域を原発の三十キロ圏外とし、千八十人を調べただけだった。

 (随時掲載します)

 デスクメモ

 2019・1・28

 二〇一一年三月二十一日の本紙一面には、福島第一原発への送電復旧状況を報じる見出し。第二社会面には冷却のための放水作業を伝える記事「消防隊員 試練乗り越え」、特報面には原発停止と総点検を促す専門家の声がある。緊迫した日々から、まだ八年弱しかたっていない。 (本)