[サイエンスOpinion]被曝線量 数字に惑わずに…編集委員 増満浩志

2019年1月20日 読売新聞 朝刊 34面

 放射線防護の枠組みは分かりにくい。特に原発事故後の対応は、平常時と大きく変わるだけに理解されづらく、「安全基準を緩めた」と批判されることもある。リスクは「あるかないか」でなく、「どのくらい高いか低いか」が重要で、その判断には数字の意味を正しく理解することが欠かせない。科学的な根拠を飛び越えて「放射線量が年20ミリ・シーベルトでは危険」「いや心配ない」などと議論するのは不毛だ。

 

「平常時」「復旧期」異なる基準

 

 もし、基準値の100倍の放射性セシウムを含む肉を200グラム食べたら、どのくらい被曝(ひばく)するか。被曝線量は約0・03ミリ・シーベルト。全く心配ない。この基準は「流通する食品の半分が基準値すれすれ」という極端な想定で作られたからだ。1食なら「100倍」でも微々たる量に過ぎない。

 数字や基準には、意味がある。その意味を考えて、表面的な数字の大小に踊らされないようにしたい。

 福島第一原発事故による汚染地域の避難指示について、政府は「年20ミリ・シーベルトを下回ること」を解除の条件としている。一般人の追加被曝線量は、平常時は「年1ミリ・シーベルト」が上限なので、「20倍、危険になった」と感じる人もいる。

 「年1ミリ・シーベルト」も「年20ミリ・シーベルト」も、国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告に基づく数字で、長期間の累積線量をできるだけ抑えるのが目標だ。そのための手段として年ごとの線量を抑える。がんのリスクは累積線量に比例すると考えられ、ある年の線量だけで決まるわけではない。状況次第で「できるだけ」の程度は変わり、緊急時は「20~100ミリ・シーベルト」の範囲から線量の目安(参考レベル)を選ぶ。

 事故後の復旧期には、平常時へ近づけるため、「年1~20ミリ・シーベルトの範囲の下方」から参考レベルを選ぶよう勧告されている。福島県飯舘村では年5ミリ・シーベルトを目安に除染が進み、2017年春に帰還が始まった。

 大分県立看護科学大の甲斐倫明教授は「参考レベルは『超えてはいけない限度』ではない。超える人を減らしていくための目標で、改善が進んだら下げるなど、状況の変化に応じて変えていくものだ」と説明する。

 避難指示解除の条件「年20ミリ・シーベルト」は、数字が独り歩きしている。この数字は、政府が航空機で測った空間線量を基に推定する被曝線量だが、実際の被曝線量は大概、もっと低い。

 産業技術総合研究所の内藤航(わたる)・研究グループ長らは15~16年、帰還準備などで飯舘村に入った38人に、線量と居場所を小刻みに記録する測定器を持ち歩いてもらい、どこでどのくらい被曝したかを調べた。その計測値が「同じ場所の航空機測定による空間線量に比べて何%か」の比率(ER)を、まず38人それぞれについて平均すると、戸外で8~36%(平均値18%)、自宅で6~27%(平均値15%)に過ぎなかった。

 ERの平均値を使い、村民が帰還して毎日8時間を屋外で生活した場合の追加被曝線量を試算した。避難指示が今も続く長泥地区以外はほぼ年5ミリ・シーベルト以下で、大半が年3ミリ・シーベルト以下とみられた。もちろん政府の推定値よりずっと低い=図=。ERの最高値で試算しても、長泥などの2地区以外は大半が年5ミリ・シーベルト以下とみられた。

 内藤さんは「今後、実際に帰還した人たちの被曝線量も確かめたい」と話す。

 

正確に測り 長期見通しを

 

 国立がん研究センターなどによると、原爆の被爆者では100~200ミリ・シーベルトの被曝で1・08倍、200~500ミリ・シーベルトで1・19倍に発がんリスクが高まった。一方、肥満で1・22倍、大量飲酒(日本酒なら1日2~3合)で1・4倍、喫煙で1・6倍にリスクが高まる。放射線は、多様ながんの要因の一部でしかない。

 50歳代の私自身は、事故やテロなど、多少の被曝がどうしても必要な取材の機会があれば、生涯の累積線量が200ミリ・シーベルト程度に達しても構わないと考えている。計算上、愛煙家や酒豪の同僚よりリスクは低いはずだ。でも、後で年相応にがんが見つかったら「放射線のせいか?」との思いが頭をよぎるかもしれない。別の原因の可能性の方がたぶん高いのだが、人間の心はそんなものだろう。

 科学的にリスクが不明確だとされる累積100ミリ・シーベルト未満でも「嫌だ」という人が、間違っているとは思わない。極端に安全な場所や食品を求めるのでなく、無理なく減らせる時は、少ない方が良い。

 量子科学技術研究開発機構の神田玲子・放射線防護情報統合センター長は「許容できる線量は、そこに暮らすメリットの大きさで変わる。住民一人一人で違う。専門家が許容範囲と考えるレベルが誰にでも受け入れられるわけではない」と語る。内藤さんも「ある線量を『高い』と思うか『低い』と思うかは、同じ家族の中でも違いがある」と話す。

 今後、帰還者の被曝線量をきちんと測り、長期的な線量を見通していくことが大事だ。住民にその数字の意味を的確に説明する行政の体制も欠かせない。

 一方、今さら測るまでもなく確かなことがある。住民が帰還に迷う線量でも、短期滞在での被曝は取るに足らない。もし、被曝が不安で福島県への旅行を避ける人がいたら、それは絶対に損だと伝えたい。

 

空から計測 数値「高」

 

 航空機から測定する空間線量は、半径約300メートルの範囲の平均値になる。人が生活する場所の空間線量は、除染などによって周囲より下がり、測定範囲の平均値より低いことが多い。このため、航空機調査の線量は過大評価になりやすい。

 ということは、もし線量が高めの場所ばかり動き回る人がいれば、航空機調査の推定より多く被曝する可能性もある。政府は、避難指示の解除後は、帰還した住民の「個人線量」測定を重視している。一人一人に線量計を持ち歩いてもらうことで、被曝が特に多い人を把握し、対策を考えることができる。

 がんのリスクなどの指標とされる「実効線量」は直接測ることができないが、個人線量計の測定値は実効線量に近いと考えられている。もちろん、常に線量計を持ち歩き、適切に使うことが前提だ。行政と専門家は、住民と協力して確かなデータの収集に努め、信頼を高めてほしい。

 ◆追加被曝線量 日常生活で被曝する自然放射線(日本の平均は年2.1ミリ・シーベルト)以外に、追加で被曝する放射線の量。原発事故による汚染など人為的な放射線源の例が多いが、自然放射線が特別に多い場所での労働による被曝も含む。患者が医療で受ける放射線は除く。管理の対象となり、職業被曝は5年で100ミリ・シーベルト(1年では最大50ミリ・シーベルト)が平常時の上限。

 ◆空間線量 屋外や部屋の中など、ある場所での放射線量。航空機を使う方法は、広い地域の線量を把握しやすく、人が立ち入れない場所も測定できる。装置を車に積んで走ったり、人が持って歩き回ったりしての測定も行われている。