こちら特報部 再利用・埋め立て 環境省が本腰(下) 元規制委トップ議論否定? 「応援するのは当たり前」 被災地議員「何度も開いて」
2019年5月20日 東京新聞 朝刊19頁
福島県内の汚染土の再利用で、安全面を確認する実証事業が二〇一七年四月以降、福島県南相馬市で始まった。茨城県東海村と栃木県那須町では昨夏から、埋め立て処分の実証事業が行われている。結果を踏まえて関係法令などを整え、本格的に処分が始まる。
今後の道筋を開く実証事業だからこそ地元の反発は強い。南相馬市の団体「除去土壌の再生利用実証事業に反対する市民の会」の栗村桂子氏は会合で、「南相馬で再利用が進めば他の地域にも及ぶことは明らか」と訴えた。
相次ぐ批判にいらだちを隠せない人もいた。福島県飯舘村の復興アドバイザーで、元原子力規制委員長の田中氏だ。
「村長から住民の思いを伝えてほしいと話があった。私はこういうところに来たくないけど」と切り出し、五分という発言時間に「何がしゃべれるか」とぼそり。「会場に来た国会議員が少ない」とも漏らした。
飯舘村はすでに再利用の受け入れを決めている。その舞台となるのは、帰還困難区域の長泥地区。農地造成で除染土を再利用することになり、手つかずだった除染を国が広範囲で実施することが決まった。
田中氏は「長泥の住民がどれだけ苦労して(受け入れの)決断に至ったか。二〇一一年の事故直後から長泥の人たちと付き合って、一人一人の考えが分かる。応援するのは当たり前」と述べ、反対する人たちを暗に非難した。
その上で、再利用の方針は民主党政権下で成立した関連法に基づくと言及し「国会議員が(再利用の推進に)責任を持つ必要がある。市民に意見を聞くということではなくて」と述べた。もう「議論の余地なし」とも受け取れる言葉だ。
強く異を唱えた人がいる。直後にマイクを握った日大の糸長浩司特任教授(環境学)だ。
「私と飯舘村の付き合いは一九九三年から。今の村長の前から村づくりに関わり、事故後も毎年調査に入っている。除染を条件に長泥の住民に苦渋の選択をさせたことが民主国家としてアウト」と指弾した。
京都大の今中哲二氏も糸長特任教授と村の調査を続けてきた間柄。「皆さんは東電に優しすぎる。汚染された物は全て東電に引き取らせることを原則にすべきだ」と訴えた。
田中氏は聴取会の最後に再度、発言の機会を持った。かなり「上から目線」で反対意見を批判した。
「皆さん、放射能は特別のリスクがあるみたいに言うが、リスクがゼロのものは科学技術にはない。もっと正しく勉強していただかないと。再利用が拡散という話があるが、仮置きされる今の状態を放置する方が『拡散した状況』と言える。管理されていないから。再利用という形は管理型なんです、一種の。その方が始末がいい」
閉会後の取材では語気がさらに強まった。「気楽な議論じゃない。知的レベルが低すぎる。いまだにこんな議論を蒸し返しているようじゃダメ」
とはいえ、田中氏は委員長の時に今よりも厳しい再利用の基準値を求めていた。そのことを指摘されると「(基準は)もっと高くても大丈夫、被ばくの問題では。それを選択せざるを得ない」。退任後は考えが変わったようだ。どんな事情が影響したのだろうか。
田中氏の言うように、再利用は議論の余地なしで進めなくてはならないのか。大熊町の木幡ますみ町議は違う考えだった。
「(除染土の後始末は)孫や子どもにも関わる。他の原発で同じ状況が生まれたらどうするかという問題もある。そこを含めて考えないといけない。だから何度も何度も、福島でも意見聴取会を開いてほしい」と願った。
デスクメモ
2019・5・20
ホットスポットとして知られた千葉県柏市は落ち葉などを不燃ゴミの日に回収している。一二年五月の市の測定では、一キロ当たり三〇〇〇ベクレル弱が検出された。この数値に不安を感じる人もいる。八〇〇〇ベクレルという再利用の基準値はどうか。科学的でないという批判では解決しない。(裕)
除染土使い農業再開 飯舘村の帰還困難区域で初公開
2019年5月25日 05:57テレ朝ニュース
https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000155436.html
環境省は福島県飯舘村の帰還困難区域で、除染した土で農業を再開する復興事業の様子を初めて報道陣に公開しました。
帰還困難区域長泥行政区・鴫原良友区長:「帰還困難区域の見本になればいいなと」
飯舘村では福島第一原発の事故で発生した除染土を長泥地区に埋め立て、さらに普通の土を盛り、そこで試験農業を行う取り組みが住民の合意を得て進んでいます。24日は除染した土に紛れ込んだ枝などを取り除く工程や来月に始まる予定の作付けの現場などが公開されました。
被災地・飯舘村に移住した、前原子力規制委員長・田中俊一氏の決意
2018年3月10日 週刊現代
2012年9月に初代原子力規制委員会の委員長に就任し、原発再稼働に関する安全審査を司った田中俊一氏。昨年の退任後、氏は故郷の福島へと向かった。
5年にわたり様々なしがらみと闘ってきた老科学者は、雪残る被災地でいま何を思うのかーー。
山あいにひっそりと暮らす
東日本大震災、それに続く福島第一原子力発電所の事故から丸7年が過ぎようとしている。だが、「フクイチ」がある福島県の浜通り地方には、まだ事故の深い傷痕が残されたままだ。飯舘村もその例に漏れない。
大量の放射性物質が飛散した飯舘村は、昨年春に一部の地区を除いて、ようやく住民の帰還が許されるようになったばかり。しかし、もっとも汚染がひどく、いまも帰還困難区域に指定されている長泥地区に続く道路は、鉄製のゲートで閉ざされている。
この村にはいま、昨年9月まで原子力規制委員会の委員長を務めた田中俊一氏(73歳)がいる。本来の自宅がある茨城県市から車を飛ばして、数日ごとに行き来する生活を送っているという。
われわれが田中氏の新しい住まいを訪ねたのは2月の下旬。飯舘村は前日に降った雪でうっすら覆われていた。
「なんだい。ずいぶん早いな」
自宅の呼び鈴を押したのは朝8時半ごろ。自分で用意した朝食を食べ終えたばかりだった。少々ぶっきらぼうながら、実直な人柄がにじみ出る口調は、以前取材した時と変わらない。
招き入れられた自宅は、かつて村の診療所の医師が住んでいたという。10年ほど空き家になっていたが、すっかりリフォームされていた。
「天井も高くて立派な家だけど、その代わり冬場はかなり寒くて暖房費がかさむよ。昨日なんて、風呂場の天井から落ちた水滴で床に氷筍が出来てたくらいだ」
ほんの数ヵ月前まで、原発の安全性に厳しい目を光らせてきた人物は、いま人よりもイノシシの数のほうが圧倒的に多い山村でひっそりと暮らしている。いまの肩書は飯舘村の「復興アドバイザー」、無報酬のボランティアだ。
双方から批判され続けた、過酷な5年間
フクイチの事故以来、日本の原子力政策を巡っては、推進派と反原発・脱原発派との対立が激化していた。そんななかで、12年に新たに設置されることになった原子力規制委員会の委員長は、双方から攻撃されることが予想される難しいポストだった。
「原子力ムラというものがあるとすれば、知らない人には、私も立派な住人に見えるんだろうね。でも私はそのムラでも、傍流の研究者だった」
そう言って笑う田中氏の存在が、原発の安全性に対する審査を任せられる専門家を探していた政府の目に留まった。
「ムラの主流にいる人たちがやってきた原子力政策が失敗したんだから、彼らが規制側に回るわけにはいかない。だから私だったんでしょう」
田中氏は、原子力ムラの人間からすれば「裏切り者」。一方、被災者からすれば「村を放射能で汚染した一味」という複雑な立場だ。それでも、自ら求めたわけではない初代原子力規制委員会の委員長という重責を任され、原発再稼働を求める電力会社にたびたび苦言を呈してきた。
「あれだけ厳しい基準を言われたら電力会社も大変だと思います。なにしろ原発一基あたり安全対策のために1000億〜1500億円かかるんだから。当然、『もう少しなんとかならないのか』という気持ちはあったでしょう。でもそれを口に出さず、規制委員会の示す基準に従って対策を取ること以外に道はないと理解してくれるようになった。それは良かった」
福島県出身の田中氏は、東北大学で原子核工学を専攻し、日本原子力研究所に入所。99年の東海村JCO臨界事故では、東海研究所の副所長という立場で事態の収束に尽力した。
初めて、世の中の注目を浴びたのは 11年3月の福島第一原発の事故直後。原子力利用を推進してきた研究者たちと連名で国民に謝罪したうえ、政府・自治体・産業界・研究機関が一体となって緊急事態にあたるべき、と提言したのだ。言ってしまえば、これまでの人生を否定する行為でもあった。
以後、独自の活動を始める。 原発事故の混乱が続く11年5月、飯舘村を訪れた田中氏は作業服に身を包み、いち早く除染の実証実験を開始した。
規制委員会委員長になってからは、なかなか足を運ぶことは出来なかったものの、飯舘村の菅野典雄村長や長泥地区の鴫原良友区長とは連絡を取り合ってきた。
そんな田中氏は、委員長という重責から解放され、一個人に戻っても活動の場として飯舘村を選んだ
本当の春が訪れる、その日まで
「規制委員長を退任するときに、官邸に行って安倍総理に挨拶してきたんだ。そうしたら『田中さん、これから飯舘に住むんだって?』と言われた。総理の耳にも入っていたんだね。だから『機会があったら是非おいで下さい』と言ったんだけど、『う〜ん』という返事だった。でも、復興が順調に進めばきっと関心を持ってくれると思う」
村の復興アドバイザーとしての仕事は「何でも屋」だ。
「村には空き家がたくさんあるから、大きな家がタダ同然で借りられる。自然が多いし、土地も広い。広く募集したら、移住希望者だっていると思う。でも、村役場には帰還してくる人の世話や学校再開に向けての対応とか仕事が満載で、そこまで手が回らないんですよ。そういうところを私みたいなフリーターがお手伝いすればいいんです」
何でも屋は、ご近所のニーズを察知しなければならない。村に住まいを構えたのも、 ときどき訪れるだけでは、住民の声をすくい上げられないと考えたからだ。
「ずっと住んでいれば、村の人たちとの付き合いも深くなるでしょう。それに解決しなければならない問題は日々変化していく。時々やってくるだけじゃあ『今日はこうしたから、明日はああしよう』ということもできない。村の皆さんの中に入っていかないと、なかなか本音も聞けないしね」
国の行政機関のトップを務めた人物がこれほどの決意で地域社会に溶け込んでいこうとするケースは稀だ。
とはいえ、村の大部分が帰還困難区域の指定解除を受けたからといって、急に村が活気づくわけではない。村に戻ってくる人々も年配者が中心。もともと少子高齢化が進んでいたのだが、原発事故はその流れを一気に加速させてしまった。
村のあちらこちらには、除染作業で出た汚染土壌を詰め込んだフレコンバッグが積み上げられ、黒々とした無数の小山が聳え立つ。その異様な光景はいまだ無くならない。
「村にはフレコンバッグが230万個もある。あれを片付けることが当面の目標。まだ帰還できない長泥地区の水田に、フレコンバッグの土をひとまとめにして、大規模農業ができるように土壌改良するんですよ。上からきれいな土を50cmくらいかぶせれば、園芸作物や牧草の栽培は可能になると思います。セシウムは土の中で移動しないので、放射性物質が漏れる心配もありません」
田中氏は、村が事故以前の姿に戻ることだけが「復興」だとは考えていない。現実的な手段と目標で、そこに住む人々の生活や雇用を取り戻す。そのためには、一歩ずつ前進していくしかない。
(取材・文/阿部崇、撮影:西崎進也)