前双葉町町長 井戸川克隆氏が書いた、第一原発事故の真実『なぜわたしは町民を埼玉に避難させたのか』駒草出版 2015年4月21日刊

【内容情報】

レベル7の過酷事故となった福島第一原子力発電所。所在地である双葉町の当時の町長、井戸川克隆はその最中、いち早く町民を県外避難へと導いた。東京電力、福島県、そして国の危機管理のずさんさや責任回避に苦しみ、いまだ先の見えない苦境の中にある福島。講演活動、選挙への出馬、そして人気漫画『美味しんぼ』への登場で福島の現実を訴えるなど、孤独な闘いを続けている前町長。その闘いの記録。

【目次】

3.11。そして避難のはじまり/原発からの避難はどうあるべきか/嘘と偽証の連鎖/なぜ東京電力はトラブルを起こすのか/住民とは、国民とは誰か。為政者は誰を守るのか/健康被害の実態を隠すな/事故を招いたもの/なぜ仮の町が必要なのか/世界は双葉を、福島を、日本をこう見ている/自立する自治体となるために/脱原発は日本自立の証/なぜ知事選に立ったのか/福島と日本のこれから

【著者】

著者:井戸川克隆(イドガワカツタカ) 前双葉町町長

企画・聞き手:佐藤聡(サトウサトル)フリーランスライター兼エディター。1961年、福島県南相馬市生まれ。出版プロダクションなどを経てフリー。

 井戸川氏は、この本に中で、東京電力や日本政府、福島県が2011年3月11日20時の時点で、1号機がメルトダウンし、爆発する危険性があることを知っていた、と指摘しています。しかし、日本政府も、福島県も3月11日の時点で双葉町に何も知らせず、双葉町の町民をむざむざ被ばくさせてしまったことを告発しています。

 井戸川氏がこの著書の中で紹介している、東京電力の資料です。1号機は2011年3月11日20時以降、核燃料が溶けはじめ、圧力容器の底に溶け落ちて初めていた、つまりメルトダウンが始まっていることを東京電力は知っていたことを指摘しています。

【出典】東京電力『福島第一原子力発電所事故の経過と教訓および柏崎刈羽原子力発電所の安全対策について』第2回原子力改革監視委員会配付資料 2012年12月14日

 上記資料には、3号機については2011年3月13日午前4時の時点でメルトダウンが始まったことが書かれています。

 上記資料には、2号機については2011年3月14日18時の時点でメルトダウンが始まったことが書かれています。

  井戸川克隆氏は、政府、福島県から避難に必要な情報も与えられないまま、独自の判断で、双葉町町民を避難させました。井戸川氏はこの著書の中で、2011年3月11日の時点で、SPEEDIの放射能拡散予測の情報が与えられていたら、川俣町に避難させなかった、と述べています。福島県のみならず、日本国民全員に対して、日本政府はSPEEDIの放射能拡散予測の情報を与えるべきであった、と指摘しています。

 まったく、その通りです。この時のプルームを私たちは浴びるべきではなかったし、その空気を呼吸するべきではありませんでした。

 原発とは一体何なのか?そして、原発事故がもらたす悲劇を知る、非常に大切な教訓を、この本は私たちに教えてくれます。是非購入され、御一読をお勧めします。内部被ばくを考える市民研究会でも販売しています。

(第1稿) 川根 眞也 2015年4月21日記

<追記> 2号機の爆発が避けられないことは前日2011年3月14日19時20分の時点で、現地対策本部は知っていた。

 2011年3月14日 19時20分の時点で、政府、福島県は、2号機の爆発を覚悟していました。それでありながら、福島県は福島県民に安定ヨウ素剤の服用指示を出しませんでした。それは放射線医学総合研究所の職員が「このくらいの放射線量では安定ヨウ素剤の服用は必要ない」とアドバイスしたからです。放射線医学総合研究所は解体すべきです。放射線防護の仕事がまったくできず、「これくらいの放射線は安全です」とのデマをふりまく役割しか果たしていません。

 2011年3月14日の夜の事故の経過については、吉田昌朗調書とともに公開された池田元久 元経済産業副大臣の調書(2012年2月9日聴取)に書かれています。池田氏は原子力災害現地対策本部の本部長でした。2011年3月14日夜、東電の班長が池田元久氏に見せたメモには、18時22分燃料露出、20時22分炉心溶融、22時22分格納容器損傷、とありました。「これはもう大変な事態だ」と説明を受けたと聴取に答えています。2011年3月14日19時20分に、保安院、東電、福島県(内堀雅雄福島県副知事、当時)、自衛隊の代表と今後の方針について検討した、と池田氏は答えています。

 つまり、この2011年3月14日の19時20分の時点で、いずれ2号機が爆発することがわかっていたのです。それでありながら、福島県は安定ヨウ素剤の服用指示を出さず、日本政府もSPEEDIの放射能拡散予測を日本国民に明らかにしなかったのです。東京においても安定ヨウ素剤の服用は必要だったと思います。

【資料】池田 元久 元経済産業副大臣 事故対応全般について 聴取者 東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会事務局 齊藤修啓 2012年2月9日

pp.10

 2号機が14日午後6時ごろから非常におかしくなってきた。

 初日も2号機が話題になったのですけれども、これは東電の班長が私のところに飛んできて紙を渡して。そのときのやつがどれだったか。

 そのとき紙を見せたのです。私はパッと書いた。18時22分燃料露出。20時22分、炉心溶融。22時22分、格納容器損傷。つまり破裂ということ。もう単純に2時間、2時間になっているのですけれども、これはもう大変な事態だと説明を受けた。

 ベントもだめ、注水もだめだ。こういうふうに推移すると。すぐに保安院経由で本部に上げましたが、このときはこれでいよいよ来るのかなという感じでありましたね。

 スタッフというか、幹部に言って、ミーティングを2回やって、まずこういう状況だから、あらゆる事態に備えるようにしておいてくれと言っただけです。オフサイトセンター全体が非常に緊張していました。

 ところが、ここにも書いてあるけれども、東電の場合はベントのチョコチョコと言うのですね。そう長続きはしなかったのですが。しかし、基本的な流れはそういう流れ、理解でしたから。

 19時20分に保安院、東電、福島県、自衛隊の代表と今後の方針について検討

 私は現地本部長で、事務局長は審議官の黒木君がいたのですが、それ以外に東電の副社長。武藤さんは7時くらいに交代して小森常務が来ていました。福島県の内堀は私とずっと一緒。自衛隊は中央即応集団の副司令がこの日の16時に着任して、今浦さん。これも幹部会みたいにやって、私のごく狭い部屋ですがやって、なかなか移転するにしても場所がないと。150人、車や人を配置できて通信手段が整う場所がない。

 内堀君の提案で、福島県庁の旧庁舎の政庁はどうかというので、それも遠いけれどもいいなと。テレビ会議システムは東電の福島事務所から入るというのです。私の心の中では、それが大きかったと思う。そういうこともありました。

〔編集者注〕2011年3月15日6時すぎ2号機のサプレッションプー(圧力抑制室)が爆発しました。池田氏はこの時点で、双葉病院の患者などの住民避難にあたっており、一番最後に福島県庁に移動しています。3月15日郡山の都路街道を通って福島県庁に10時59分に福島県庁に着いたと聴取に答えています。こうして、2号機の爆発後、原子力災害現地対策本部は大熊町のOFC(オフサイトセンター)から、福島県庁の旧庁舎に移設するのです。その時点で、本部長は池田氏から松下経済産業副大臣に交代しています。