【35カ月目の福島はいま】

体調悪化は本当に被曝と無関係?闘い終わらぬ郡山市の夫妻

出典:鈴木博喜 民の声新聞 被曝から子どもを守ろう。民を守ろう。その一念で書き続けます

   2014年2月2日版

 鈴木博喜さんの許可を得て、全文を転載させていただきます。

夫婦に次々と起こった体調悪化に、妻の疑問はふくらむばかりだった。「本当に被曝と無関係なの?」。依然として高濃度汚染が解消されない郡山市で、Aさんは足の痛みと闘いながら東電への訴えを続けている。除染が済んでいない自宅の雨どい直下は16μSv/hを超す。落ち葉掃除が日課だった夫は白内障を患った。2人の子どもは関西に逃がしたが、のう胞や結節が見つかっている。数十年後でもいい、死後でもいいから因果関係を認めさせたいとAさんは語る。

【夫は白内障、妻は足の骨にのう胞】

 郡山駅から路線バスで西に約20分。県立郡山高校の校庭では野球部のバッティング練習が行われていた。金属バットが乾いた打球音を発し、別の建物からは吹奏楽部の演奏が漏れ聞こえてくる。震災前から続いているであろう、何気ない日常の光景。ただ一つ異なるのは、校舎の周辺や隣接する西部公園で依然として0.3μSv/hの放射線量が計測されることだ。もうすぐ原発事故から丸3年になるが、飛び交う放射線が子どもたちの健康を害する恐れは消え去っていない。
 近所に住む50代のAさんは、県民健康管理調査の結果に釈然としない毎日を送っている。やはり50代の夫と日々の事故後の行動パターンがほぼ同じだったとして、似通った内容の問診票を一緒に提出した。しかし、問診票から推計された外部被曝線量は、あまりにもかけ離れていた。Aさん自身は「4カ月間で1.8mSv」と算出されたのに対し、夫の推計値は「2週間で0.8mSv」と記載されていた。なぜ算出期間が大きく異なるのか。どちらが本当の数値なのか。Aさんは福島県立医大の問い合わせ窓口に電話をかけたが、木で鼻を括ったような回答しか得られなかったという。「一件一件調べられないとのことでした」。
 夫妻の体調に異変が生じ出したのは2012年9月頃。2人とも身体に赤い発疹のようなものができるようになった。血液検査をしてもアレルギー反応は認められない。落ち葉の掃除が日課だった夫は昨年3月、甲状腺に結節3つあることが判明、関西の病院で細胞診を受けた。その際、電話予約をしようとすると「福島の方は福島で検査を受けるように」と断られ、ようやく検査を受けられたという。夫はその2ヶ月後から目がかすみ始め、12月に白内障と診断。手術を受けることになる。
 Aさんは、足の骨にのう胞が見つかった。初めは左足だけだったが、やがて両足にのう胞が認められるようになった。若い頃、スポーツに打ち込み国体にも出場経験があるAさんは、股関節の病気を患いながらも震災前は走っていたという。それが今はじっとしていても痛みが走り、歩くには杖が必要になった。医師に相談しても加齢が原因だと言われる。被曝の可能性を問うと「そんなこと無い無い」と一蹴されたという。
 「今までのう胞が見つかることは無かったのに、どうして元々悪かったからのう胞が出来ただけと言い切れるのでしょうか。被曝の影響ではないかと不安でたまりません」

(上)夫婦のデータが綴じられた「県民健康管理ファイル」
(中)Aさんの推定外部被曝実効線量は4カ月間で1.8mSv
(下)だが、夫の線量はわずか14日間で0.8mSvと記載されている

【わが子の避難と苦い記憶】

 東電に治療費を賠償請求したが、半年後の回答は「却下」だった。理由は「郡山市だから」。電話で再三、問いただしたが「20km圏内と郡山市は違う」「既に避難費用として賠償金を支払っており、治療費もその中に含まれる」と一点張りという。たしかにAさん一家は賠償金として1人8万円、計32万円を受け取ったが、当時の書類にも治療費を含む旨の文言は無い。コールセンターのオペレーターに「これだけ放射線量が高いのに、20km圏内と何が違うのか」と尋ねても明快な解答は無し。「汚染された土を郵送すれば証明できますか?」と迫ったが、「できかねます」と上司に取り次ぐことさえしてもらえなかったという。
 「郡山高校の側溝は事故後、100μSv/hもありました。自宅の花壇も4μSv/hに達していた。それなのに、なぜ20km圏内と区別するのでしょうか」。Aさんの怒りはもっともだ。
 2人の子どもは2011年3月17日、兵庫県内のAさんの実家に逃がした。当時、関西電力関係の仕事を請け負っていた友人からは「子どもだけでも早く逃がせ」と電話で言われていた。ようやく見つけた2席分の航空券を確保し、福島空港から羽田経由で伊丹空港へ。福島空港には、キャンセル待ちの人々が、毛布にくるまるようにしていたという。
 避難後、三重県内の会社に就職した息子は、結婚前に婚約者の両親から検査を求められた。「一人娘だし、相当心配だったんでしょう」とAさん。息子の甲状腺からは数えきれないほどののう胞が見つかったが、血液検査では異常は認められなかった。20代の娘も1.6cmの結節が見つかったが、体調に変化はないという。「私の判断は間違っていなかったんですよ」。Aさんの頬が一瞬だけ緩んだ。
 原発事故でよみがえった苦い記憶。小学生の頃、同級生に多指症の子どもが2人いた。母親が広島で被爆。1人の健康手帳には「原爆症」と記載されていたという。当時「ピカはうつる」との誤った認識が定着してしまい、誰も2人に近づこうとしなかった。運動会のフォークダンスでも、2人だけは誰からも手をつないでもらえなかった。教師もそれを咎めない。白内障でレンズの厚いメガネをかけていた同級生。原発事故後に当時の友達と会食した際、1人が「えっ?福島から来たの?大丈夫?」と一瞬だが避けるような仕草をした。「ああと思いました。それと同じですよね。当時、私たちがしていたのは残酷ないじめでしたよね」。
 わが子を守ると同時に、次の世代への思い。被曝が遺伝しないと本当に言い切れるのか。Aさんがいち早く子どもたちを関西へ逃がした背景には、当時の贖罪もあったのかもしれない。

(上)いまだに16μSv/hを超すA]さん宅の雨どい直下
(中)別の雨どい直下も4μSv/hを上回った
(下)自宅からほど近い西部公園では間もなく、汚染された木製遊具が交換される

【数十年後のためにデータ保存】

 水俣病など、健康被害が数十年後にようやく認められるケースが少なくない。「私たちも、仮に因果関係が認められるとすれば、死んだ後でしょう。多くの人が亡くなって人数が少なくなってから、ようやく認め始めるのではないでしょうか」とAさん。今できるのは「その時」に備えることだけ、とデータの保存に余念がない。
 そして、子どもを連れて避難したいと願う親への金銭的補償が早く用意されることを願っている。「20km圏内の方々はきちんと補償してもらっているのに、どうして自主避難には補償がないのか理解できません。避難に要した実費だけでも補償して欲しいです」。

(了)